従軍慰安所〈海の家〉の伝言 [海軍特別陸戦隊指定の慰安婦たち]

著者/華 公平(はなこうへい)

定価/1264円(税込)

判型/四六判

頁数/152ページ

発行/1992年8月15日

ISBN/488900243X

 

【内容紹介】

 戦時中、日本海軍特別陸戦隊指定の軍属〈ご用達〉の慰安所を経営していた父親を持つ息子が、かつての思い出を記したもの。当時の上海で最大規模であったこの慰安所には、日本女性10人、朝鮮女性10人、中国女性20人あまりがおり、まさに泥沼地獄といった様子であったと表現している。

 

【本文から】

 「一番最初に印象に残っていることは、女の子の足ですね。病気で死にかけの足。何気なしに二階に上がって、一番奥の部屋に行き、そこの誰かが寝ていると聞かされていたんで、それにまた興味があって、のぞいて見たんです。恐ろしかったですよ、腫れ上がっているんです。色はいやに黄色くて、不気味な腫れ方で、普通の女性の足の倍近くはありました。(親父は)『病気で寝ている。お客もとられへん』と言っていました。(中略)その人は一週間か十日ほどでしたか、いく日もしないうちに死にましたよ」
 
 「死体は海軍に預けた、海軍が死人は全部処理してくれた、すべてそういうことは軍に報告しなさい、ということのようでしたね」
 
 「(本館の)一階には、海軍が作ってくれた防空壕がありました。帳場の端のほうにね、詰めれば十人くらいは入るもので、海軍の施設部が来て、掘って作ったんです。(中略)確か昭和十九年の終わりころのことでした。うちの親父が、上海に空襲があったら困るから、と海軍に要請して、土を上に1メートルほどかぶせ、中には座れるうに椅子も作ってくれました」
 
 「うちの店は海軍の管理下でやっていて、最終的な決定権は、やはり海軍にあり、日常経営権は、それなりに親父が委嘱されていたものですよ」
 
 「ただし、刃傷沙汰や喧嘩が起きるとか、そういうことについては、工部局、つまり上海でいう警察ですが、そんなところに言っていくことはまずなくて、すべて、海軍に通知することになっていました。上海海軍特別陸戦隊の、憲兵みたいな所の偉い人が来て、全部処理してくれましたから・・・」
 
 「商売上の苦労は、なかったようです。まあ言ってみれば、日本帝国海軍に、オンブにダッコ、というなんとも今では想像もできない、楽な稼業だったんです。海軍との間では『金は、お前のところが儲けたらええねん』という感じでしたよ。ただ、『軍部の遊ぶところを、海軍がこしらえたんだから、それを遅滞なくスムーズに提供しなさい。あとのことは何も言わない。すべての責任は海軍が持つから』ということですよね。一種の官僚機構で、その末端だったんですね。だから、海軍特別陸戦隊から、私たちにも軍属の証明書をくれたんですよ。(中略)慰安婦たちも軍属で、みんな軍属の身分証明書を持っていました」
   

【著者紹介】

華 公平(はな・こうへい)

1929年3月31日、神戸市生まれ。

 

【目次紹介】

上海市街中心図

第1章 従軍慰安婦5人と汽車で上海に
    ・昭和19年7月、上海日本工業学校に転校
    ・慰安婦5人と神戸港を出発
    ・行けども行けども車窓に高粱畑
    ・着いたわが家は従軍慰安所
    ・第一印象は瀕死の慰安婦の〝足〟だった
    ・死体も食事も海軍がトラックで
    ・試験は軍人勅諭の五ヵ条だけ
    ・興味は上海第二女学校の女子学生に
    ・〔海乃家〕本館は14~15部屋
 
第2章 そのとき〔海乃家〕の従軍慰安婦たちは
    ・従軍慰安婦[さくら]さん回想
    ・従軍慰安婦[いさむ]さん回想
    ・従軍慰安婦[一二三]さん回想
    ・従軍慰安婦[小鈴]、[すみれ]さんの爆死
    ・空襲下、陸軍大隊長ら呑めや歌えの・・・
    ・[清香]さんらと、軍属証明書の交付
    ・来客あふれ、ピーク期の店内
 
第3章 海軍の関与と〔海乃家〕回想
    ・経営は委嘱、海軍軍属の身分証明書もつ
    ・上海に君臨する海軍特別陸戦隊
    ・父はもと戦艦「浅間」の乗組員
    ・満員続きで「別館」を新開店
    ・一花五円――の花代
    ・水揚げの配分は、子方4割だった
    ・朝鮮女性多い軍人専用・横浜橋従軍慰安所
    ・下士官・兵用とは別に士官用慰安所も
    ・兵器主任がくれたピストル2挺と国府軍
    
第4章 敗戦前夜の〔海乃家〕と海軍と
    ・うちの二階に李香蘭がいる――と水越君
    ・青天白日旗8月13日に各所にあがる
    ・一時慰労金だせ、と慰安婦押しかける
    ・慰安所の部屋すべてに引揚者が住む
    ・海軍の放出物資で食いつなぐ毎日
    ・父は55大隊長、豊栄丸で鹿児島上陸
 
第5章 父、母と上海イメージ
    ・父は和歌山出身、12歳で働きはじめ
    ・誘われて、上海虹口市場「煮豆屋」大繁盛
    ・母は大反対だった従軍慰安所経営
 
第6章 上海再訪 感傷旅行
    ・学校友だちと思い出のカケ足旅行
    ・通学時代の揚樹浦と、きれいな上海の街
    ・公平路公平里425号――本館の面影
    ・人殺しに正義はない、といましめたい
 
あとがき

 

【本文写真の一部】